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冬の夕暮れ、花を何本か買ってきた。
テーブルの上に並べる。
どの花瓶に挿すか、迷う。
口の広い瓶を選ぶ。水を入れる。
一本目を立てる。二本目を添える。
その瞬間、茎が寄り添ってしまう。
三本目を挿そうとすると、先に入れた花が傾く。
指で位置を直す。また寄ってくる。
少し離そうとすると、今度は反対側の花が倒れかける。
この「直す動作」が、何度も続く。
花を飾るという行為が、いつの間にか「バランスを取り続けること」になっていた。
手を離せない。離すと、茎同士が重なり、向きが崩れる。
本数が増えるほど、中心に渋滞が起きる。
五本、七本と増やしていくと、茎が互いに押し合い、花の向きが定まらなくなる。
フリッツ・ハンセンの花器を手に取ったのは、そんな時だった。

真鍮の蓋と底板、両方に穴が開いている。
ガラスの筒状の本体。
水を満たして、穴に茎を通す。
一本目。上の穴から差し込み、下の穴で支えられる。
二本目。別の位置に通す。
茎が、上下の穴で静かに止まる。
指を離す。
花が、寄ってこない。
上下の穴が、茎と茎のあいだに静かな距離を残している。
それぞれの花が、それぞれの向きで止まったまま、動かない。
この距離を、真鍮の穴が預かっている。
穴の位置は、あらかじめ決まっている。
茎の太さに合わせて穴を選べば、花は自ずから、その場所で立つ。
重心が定まり、傾かない。
手が、そこで止まる。
直す動作が、消える。
五本、七本と本数を増やしていく。
普通の器なら、花が増えるほど中心が密になり、茎が絡み、向きが乱れる。
でも、フリッツ・ハンセンは違う。
本数が増えるほど、それぞれの居場所がより明確に定まっていく。
たくさんの花が、互いに触れ合うことなく、静かな距離を保って咲いている。
密なはずなのに、呼吸ができるような余白が、そこにある。

以前使っていた花瓶は、口が広く、茎を自由に動かせる形だった。
自由であるがゆえに、茎同士が寄り添い、重なり、向きが定まらない。
フリッツ・ハンセンは、その迷いを預かる。
穴が、位置を示す。
間が、自ずから生まれる。
花と花の間に、静寂が残っている。
これは、生け花の「個の自立」を、構造で再現した道具だ。
わびさびという言葉を、精神ではなく物理で成立させている。
余白は、感性で作るのではなく、真鍮の穴の配置が、静かに示している。
窓際の棚の端に置いておく。
朝、カーテンを開ける時に、光が真鍮の表面を滑る。
ガラス越しに見える水の位置。
茎の断面。
夕方、部屋の奥から見ると、花と花の間に空気の層が見える。
それぞれの花が、互いに干渉せず、ただそこにある。
花が枯れたあとも、水を抜いて真鍮の蓋を外し、ガラスだけを洗う。
次の花を買ってくるまで、そのまま棚に戻しておく。
道具が、そこにあるだけで、次の動作が待っている。
真鍮は、使うほどに色が変わる。
最初の鈍い金色が、少しずつ深みを帯びていく。
ガラスの透明度は変わらない。
この対比が、冬の乾燥した空気の中で、静かに際立っていく。
道具に身を委ねることで、花との境界線が消える。
フリッツ・ハンセンの花器は、そういう時間を預かる場所です。




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